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福岡地方裁判所 昭和41年(行ウ)3号 判決 1977年11月29日

原告

坂井正澄

木原民也

右原告ら訴訟代理人弁護士

諫山博

(ほか三名)

被告

福岡市教育委員会

右代表者教育委員長

吉武不二男

右訴訟代理人弁護士

和智竜一

(ほか二名)

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告が原告らに対して昭和三七年六月一三日付でなした別紙記載の各懲戒処分を取消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決。

二  被告

主文同旨

の判決。

第二当事者の主張

以下において、福岡市役所従業員組合連合会は「市従連」と、福岡市役所職員組合は「市職」と、福岡市水道労働組合は「水道労組」と、福岡市立高等学校教職員組合は「市高教組」と、福岡市役所臨時職員労働組合は「臨職組」と、福岡市役所現業職員労働組合は「現業労組」と、市従連現業労組共闘会議は「共闘会議」とそれぞれ略称する。また便宜上、職員団体と労働組合を併せて「労働組合」ないし「組合」という。

(事実上の主張)

一  請求原因(原告ら)

1 原告らはいずれも後記2の本件処分当時、福岡市立女子高等学校に教諭として勤務していた地方公務員であり、市従連に加盟する市高教組に所属し、原告坂井は同組合の執行委員長、原告木原は同組合の書記長たる地位にそれぞれあったものである。

被告は右原告らの任免権者である。

2 被告は右任免権に基づき、昭和三七年六月一三日付で原告らに対し、いずれも減給二ケ月の懲戒処分(以下、「本件処分」という)をなした。

3 しかしながら、被告のなした右本件処分は違法であるから、取消されるべきである。

4 原告らは右取消を求めて、昭和三七年七月に福岡市公平委員会に対して不服申立を行なったが、右申立後三カ月以上を経過するも裁決がない。

二  請求原因に対する認否(被告)

請求原因1、2及び4の事実は認め、同3は争う。

《以下事実略》

理由

一  請求原因1、2及び4の事実は当事者間に争いがない。

二  そこで以下、被告の抗弁(本件処分の有効性)につき順次判断する。

1  争議行為について

右の点については、(証拠略)を総合すると、以下の各事実を認めることができる。

(一)  福岡市においては、昭和二五年の地公法制定に基づき、同市に働く労働者らによって市職、水道労組、現業労組及び上記三組合で構成する市従連(なお市高教組も昭和二九年ごろに市従連に加盟した)などの労働組合が組織され、首切り反対闘争、夏期・冬期手当のベースアップ闘争などを中心に活動していた。また、地公法制定当時には人夫・筆耕などと呼ばれて同市に雇傭されていたいわゆる臨時職員(地公法一七条一項、四項を任用根拠とする期限付採用職員と同二二条五項を任用根拠とする臨時的任用職員とを含む。右一七条については、もともといわゆる終身雇傭される正職員にのみ適用されるべきものが、正職員の定数や予算不足などのためにこれを補うものとして採用されてきた右期限付採用職員についてもその任用の根拠条文とされるようになったものである。したがって、期限付採用職員の中には定数化された正職員とほぼ同じ職務内容に従事するものもいた。なお期限付採用職員は、福岡市のばあい、昭和三〇年ごろから準職員と呼ばれるようになった。)は、給与(日給制)、休暇(年に一二日)、各種保険などの面で正職員との間に歴然とした隔差があったために、これが是正を求めて昭和二七年に「福岡市役所臨時職員組合」を結成し、主に常勤的職務に長期間勤務する臨時職員の定数化問題を中心にして公平委員会に提起するなど活動していたため、一時期臨時職員がほぼ正職員に定数化されて右組合も自然消滅していたが、その後再び臨時職員が増加するに従って、昭和三二年あらたに臨職組が結成されるに至った。

この臨職組も前記四組合と共に市従連に加盟して主に常勤的定数外職員の定数化を求めて福岡市と交渉し続け、同年内に市当局との間で任用試験に合格したものは五年計画で正職員に繰入れるとの覚書を交すまでになっていたが、その後にもあらたに臨時職員が同市に採用され続けたため定数化問題は尾を引き続け、昭和三五年には定数化の実施につき準職員を(甲)と(乙)に区別し、更に同三六年四月には前記五年計画に続いて三年計画、四年計画等の実施に着手するなど逐次定数化を行なってはいたものの、右のとおり福岡市においては毎年新たに臨時職員を採用していたため、右問題の根本的解決までには至っていなかった。

ところで全国の国家公務員と地方公務員で構成された公務員共闘会議(以下「公務員共闘」という)は、昭和三五年度の給与改定として一律三、〇〇〇円アップの賃上げ要求をしていたが、人事院は同年八月八日に一二・四%(平均二、六八〇円)アップ、五月一日より実施、を内容とする勧告(以下「人勧」ともいう)を政府に出した。福岡市のばあいも、市従連や現業労組(同組合は昭和三四年ごろ市従連から脱退していた)は共闘を組んで前記公務員共闘の統一要求に従って一律三、〇〇〇円アップ並びに臨時職員、その中でもとくに準職員の定数化等を市当局に要求し、昭和三五年末から同三六年年頭にかけて多数回にわたる職場大会、市長室前廊下の座(ママ)り込み、賃金討論集会などの闘争を組んだ。市当局は昭和三六年一月一三日に概ね右人勧に倣った額で具体的回答をなしたが、組合側はこれを了承せず同年二月初旬ごろまで団交がもたれた。そして右各要求につき市当局案に譲歩した形の組合側の執行部案は同月一六日の組合大会で否決され、翌一七日市従連執行部(古本孝一委員長)は総辞職した。その後賃上げ要求につき、現業労組は市当局の提示案(二、八六〇円アップ)を了承し、市従連はこれにも反対していたが、市当局が同月二三日市議会に給与改定条例を上程し、二七日に可決、二八日に差額分を支給したため、昭和三五年度の賃闘はここに一応の終結をみた。

(二)  人事院は昭和三六年八月八日に同年度の国家公務員の給与改定として七・一%(一、七九七円)アップ、五月一日より実施、を内容とする勧告案を政府に対して出していたが、これを受けて政府は同年一〇月末右人勧を一〇月一日に遡って実施する旨閣議決定し、そのための給与法の改正案を折りからの臨時国会に提出して政府原案どおり可決成立するに至った。一方、前記公務員共闘は同年九月一日に一律五、〇〇〇円アップの賃上げ要求を行ない、全日本自治団体労働組合(いわゆる自治労)もこの方針を批准した。

ところで福岡市においては、右(一)のとおり昭和三六年二月一七日に市従連の執行部が総辞職していたところ、同年九月に古本委員長の後任者として以前(昭和三四・一〇~同三五・八)にも市従連の執行委員長に就任していたことのある水早義信が、再度市職の組合長に就任すると共に市従連の執行委員長に選出された。この水早執行部では、前年度の給与改定交渉が妥結に至らなかったこともあって昭和三五、三六年度分を一括請求する立場から、右公務員共闘指示の一律五、〇〇〇円アップの統一要求の線で昭和三六年度分の賃上げ要求を行なうこととし、これと同じく自治労から指示がでて且つ福岡市においても前記のとおり根本的解決までには至っていなかった臨時職員の定数化要求等を主な柱として福岡市当局に要求してゆく方針を組合大会で決定した。

こうして同年一一月九日・一〇日の組合定期大会で決定された要求事項に基づいて同月一六日、市従連(当時組合員数四、二〇〇名)と現業労組(同一、一〇〇名)は市当局に対し、右賃上げや定数化要求などを盛り込んだ第一次統一要求書を提出するとともに(なお翌一七日には諸手当等の職場要求に関する第二次統一要求書を提出した)、早速、両者からなる共闘会議を発足させ、今後は組合側の交渉窓口は共闘会議としたい旨申し入れた。この共闘会議の議長には市従連の執行委員長であった水早が、また同副議長には市高教組の執行委員長で市従連の副執行委員長でもあった原告坂井が、それぞれ就任した。

この統一要求に基づき市当局と共闘会議との間で、同年一一月二一日、二四日、二七日と団体交渉がもたれ、また同月二一日には市当局の回答書が共闘会議側に出されたが、そこにおける市当局の回答内容は、先に出された人勧に準じた取扱いさえ年内決着は無理であり、まして一律五、〇〇〇円アップなどとてもできないというものであった。そこで市従連、現業労組などの組合側は、同月二四日ごろに開かれた組合大会で闘争三権(団交権、指令権、妥結権)を自治労本部、同県本部、共闘会議に委譲する旨確認の投票を行なってこれを可決し、闘争体制を固めた。これによって実力行使は市従連執行部の独断ではできず、県本部の指示が必要となったが、実際には共闘会議(具体的な戦術決定については、共闘会議の中の企画委員会が提案し共闘会議が承認するというものであった)で決まった戦術が県本部で否定されるということはなかった。

かくて同年一二月七日の第八回団体交渉の席上において、期末手当の問題が一応落着し、給与改定についてもその実施時期の問題だけを切り離して昭和三六年一〇月一日とすることで市当局側と共闘会議側に了解がついた。しかし、給与改定の内容や臨時職員の定数化要求などについては意見が一致せず、一応当局側は人事部が、共闘会議側は組合執行部がそれぞれ窓口となって両者の間で話を進めていくことになり、その後に右両者間で事務折衝が数回行なわれたものの決着をみず、遂に右問題の解決は翌昭和三七年に持ち越されることになった。

(三)  前述のとおり、昭和三六年度の給与改定について自治労が一律五、〇〇〇円アップの要求案を批准してから、全国各地の地方公共団体において組合側の積極的な闘争態勢が広範に組まれたが、昭和三六年末までの段階で、大部分の府県及び半数近くの市においてほぼ人勧どおりの改定で労使間に妥結をみていた。この中で特に目立ったものとしては、大阪衛都連の全単組の賃上げ平均額が五、〇〇〇円を上回ったことであった。しかし福岡市がその目標としていた六大都市(東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸)の給与改定交渉は、翌昭和三七年二月中までにはそのほとんどの都市において妥結していたものの、昭和三六年末の段階ではいまだ決着をみずに、概ね各都市ともに人勧の線に沿った第一次回答が当局側よりなされた程度ないしはそれさえない程度のものであった。

福岡市の場合は昭和三六年末の段階では、市当局は前述のとおり人勧並みのアップも難かしいと答える程度で具体的回答は示さなかったが、翌昭和三七年一月三一日の第一二回団体交渉の席上では、最終回答として人勧に準じた七・八%(一、八八八円)アップの提案を組合側に対して行なった。これに対して右衛都連や自治労県本部からのオルグ員を迎えて一律五、〇〇〇円アップの要求も決して不当ではなくその実現も不可能ではないとその組合員の志気も盛り上がっていた共闘会議は、やっと市当局より出された具体的回答が人勧の線からほとんど前進しておらずしかも上厚下薄の内容だとして態度を硬化させ、更に闘争を強化する方針を決定するとともに、右市当局の回答をいち早く組合員に知らせ今後の闘争を盛り上がらせるために、共闘会議の企画委員会で決定した方針に従い、翌二月一日の早朝、福岡市役所本庁舎正面玄関前で職場大会を開催した。

(四)  ところで右一月三一日の団体交渉の席上では次回の団交期日を二月八日とする旨合意されていたものの、同日の期日は市当局の申入れにより二月一三日まで延期された。しかるに組合側からその出席を強く要求されていた阿部源蔵福岡市長は昭和三七年度新予算及び同三六年度補正予算の最終的な査定作業に従事中のため、遂に右一三日の第一三回団体交渉にも出席しなかった。そこで同日の夜に開かれた共闘会議の席上で水早議長、原告坂井副議長ら執行部幹部は、昨年は二月一四日ごろには賃上げ要求が妥結していた(もっともその後この執行部案は組合大会で否決されたこと前述のとおり)のに引換え、今年は同じ時期になっても次回の団体交渉の目途さえ立たないということで、これまでの統一交渉方式に不安を感じ、一層の闘争強化を図るため、前年度までは例年職場委員が数名で書面提出を行なうといっただけの実態しかなかった各職場での職場交渉を、今年から積極的に共闘会議の幹部が出向いて各職場の組合員と共に所属長に直接要求するという形で行なうよう共闘会議としての方針を固め、闘争指令として各単組に発令した。この闘争指令を出した背景には、阿部市長及び市当局のこれまでの態度からして従前どおりの団体交渉では埓があかないので一旦この団交を拒否して闘争を各職場に戻し、各職場の所属長との交渉をとおして市の財政当局にいわゆる突き上げを行なおうという共闘会議の戦術転換があった。

(五)  こうして二月一四日、共闘会議はこの戦術転換を組合員に周知徹底させるため二月一日と同様に勤務時間(福岡市のばあい当時午前九時から午後五時まで)内に約一時間喰い込む職場大会を本庁舎正面玄関前で開催した。この大会は共闘会議の幹部が中心となって参加組合員約三〇〇名を集めて行なわれ、原告坂井も共闘会議の副議長として壇上に参列した。その間水早議長の挨拶、浜崎事務局長の経過報告が行なわれたが、市当局の西津人事課長が阿部市長の解散命令や解散勧告を組合側に口頭及び文書で伝えたのに、原告らはこれを無視した。

ところで当時、福岡市には市立高校が三つあり市高教組に属する組合員も一五〇名前後がいたが、共闘会議の指示内容は市役所本庁のばあいとは異なり、各高校の執行委員を通じて組合員たる教諭に伝達しその周知徹底を図ることができた関係で、前記職場大会は要求貫徹のための争議手段の意義のほか、主として本庁に勤務する市役所職員を対象に開かれたものであった。そのため市高教組の組合員は同日の職場大会にはほとんど参加しなかったが、原告坂井は前述のとおり主催者たる共闘会議の副議長としてこの職場大会に参列していた。

(六)  その後も共闘会議の戦術は展開されて、職場大会・職場交渉(これは三日間にわたって本庁舎内の各局において西岡久隆給与調査部長ら共闘会議の幹部が組合員数十名を率いて各所属長に対し職場要求を行なったというものであり、その態様は職場要求と称して一般職員の執務室とつい立て一つで隣接した各局ないし課の局長・課長といった所属長の執務室に多数の組合員と共に突然押しかけ、右所属長らに対してその権限外のことについて執拗に回答を迫り、同人らの退室要請を無視して長時間とどまって喧噪を極め、なかには課長を二時間近くも立たせ同人の気分が悪いとの訴えを無視したまま多数の組合員をして取り囲ませていたという過酷な行動もとられていた。このような態様の職場交渉は例年にないもので、今回はじめてとられたものである。)市長室前の座り込みなどの行動が同年三月五日までほぼ連日とられていったが、その間共闘会議の要求にも拘らず阿部市長との交渉再開の見通しは立たず、遂に二月二六日には次の行動がとられた。

即ちこの二六日においても、共闘会議の指令で浜崎周良、西岡久隆ら共闘会議の執行部も含めた約六〇名位の各単組組合員が、休暇をとって(なお市高教組の組合員については後述の手続をとって)午前一〇時半ごろから本庁舎二階にある市長室まで阿部市長との交渉再開を求めて面会に行ったが、市高教組に所属する組合員も原告坂井を含めて各高校から四、五名づつ合計約一四、五名位が右行動に参加した。ところでこれら市高教組の組合員はいずれも高校の教諭であったが、当日授業のない教諭だけが各高校の総務部長(職員会議によって選出された者で、当時は組合員)の承認を得て参加していた。

ところが阿部市長は市長室に不在であったため、前記浜崎はそのまま座り込み宣言を行ない、右組合員らをして市長室前廊下付近に座り込ませ、午前一一時ごろ市当局から発せられた解散勧告、解散命令を無視して午後五時ごろまで座り込みを続行した。原告坂井は右行動に参加していた市高教組組合員の責任者として右座り込みに参加すると共に、午前一一時過ぎ頃、市高教組組合員に座り込みを止めて帰校するように説得していた被告教育委員会の一丸俊憲学校職員課長に対して、その説得を妨害した。

しかしこれらの座り込みは、廊下の両脇に組合員が一列に並んでいたもので、廊下の中央は通行可能であって組合員らが他者の通行をことさら妨害するというような態様のものではなかった。

(七)  共闘会議は昭和三七年二月一日から妥結に至る三月六日までの間に、合計九回の職場大会を行なったが、その際おおむね共闘会議の幹部・執行委員の全員で大会開始直前に、市役所本庁舎の主要出入口に立って職場への入場阻止のピケッティングを行なったため、登庁する職員の多くが毎回大会に参加するなり近くの商店街に屯するなりして自己の職場から離脱していた(本庁職員数約一、五〇〇名のうち約三〇〇名から一、〇〇〇名の職員が毎回大会に参加し、残りはほとんどが近くの商店街などに集まっていた)。そのため大会開催中に電話がかかってきても応対に出る職員のいない課も見受けられた。そして原告坂井の参加した二月一四日の職場大会においてもことは概ね同様だった。しかし他方、共闘会議としてもピケッティングは事務関係が主である本庁職員のみを対象とし、港湾・上下水道・火葬場・清掃・道路工事等の各出先機関の職員は市民生活への影響が大であることを考慮してこれを対象から外しており、また本庁のうちでも特に市民と直接接する窓口業務、例えば市民課・各市税事務所・民生事務所等の関係窓口ないし電気・電話等の業務については、市民や職員に迷惑がかからぬよう保安要員を置くなどして一応の対策を講じていたといえる。このうち保安要員については、各職場委員がピケッティングの際に自己の職場にある窓口事務等について保安要員となっている職員だけを選別して、その職務に従事するよう職場大会への出席を免除する旨の指令免除証を渡すなどして指導していたものであり、その後の共闘会議としての監視態勢が一部不十分だったために右の手立てだけから毎回市役所本庁舎の全窓口に保安要員が配置されていたとまではいえなかったにしても(<証拠略>によると、例えば市民課においては三月五日のみが保安要員一名であり、その配置数としては不十分であったと認められる。)、概ね共闘会議としては窓口業務に支障が出ないような配慮を行なっていた。そしてこのことは原告坂井の参加した二月一四日の職場大会のときにおいても変わりはなかった。

以上の事実を認めることができ、(証拠略)も右認定に反するものとは認められない。なお前記(六)の二月二六日における市長室前廊下の座り込みの件については、そこに認定のとおり、座り込みに参加した教諭はいずれも総務部長の承認を得てから参加しているわけであるが、原告坂井正澄の本人尋問の結果によると、当時授業時間の合間を縫っての外出は、公用・私用・組合用務を問わず校長の許可を要する建前になっていたものの、実際の運用は職員会議で選出された総務部長の承認を得れば校長も原則として許可をするという取扱いがなされ、座り込みは参加した各教諭も右の総務部長の承認に得ていたというのである。右の取扱いが果たしてその言うとおりに高校教諭の職務専念義務を免除する慣行として有効であったのかどうかはともかく(昭二六市条例六号三条参照)、仮りに適法な職務専念義務の免除の効果はなかったとしても、少なくとも各教諭の座り込み参加行為によって生徒やその他の学校業務に具体的な支障が生じあるいはその虞れが生じたことまでをも推認させるに足る証拠は何ら認められない。

2  議場封鎖行為について

次に右の点については、(証拠略)を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  もともと板付飛行場は旧日本陸軍が完成した席田飛行場を昭和二〇年一〇月アメリカ軍が接収し、その名称も「板付」と改め引き続き基地として拡張整備してきたものであったが、この板付基地は福岡市の都心から僅か三粁のところに位置し、数回にわたりアメリカ軍の軍用機が民家に墜落するなど極めて市民生活に危険をもたらす施設であった。そこで福岡市民による板付基地移転の運動も早くから進められ、昭和二七年一二月には福岡市議会で基地撤去の議決をするまでになった。そして同三〇年六月には、福岡市議会、九州大学、福岡市当局、福岡市PTA連合会、福岡地区労働組合協議会(以下「地区労」という)、安保破棄福岡地区共闘会議(以下「安保共闘」という)など一九の団体で構成する「板付基地移転促進協議会」(以下「移転協」という)が創立され、市民総がかりによる基地移転運動へと発展し、更に昭和三六年三月三一日には再び市議会で板付基地の拡張に反対し、早期移転を要望する旨の決議がなされるに至っていたところ、同年一二月七日再び米軍機一機が福岡市香椎の民家に墜落し、市民四名が死亡し家屋数戸が炎上するという事故が発生したため、福岡市民の間には板付基地の早期移転を願う抗議の気運が急速に高まり、同市議会も同月一二日にはあらためて基地移転の決議を行なうまでになっていた。

こうした中で翌昭和三七年二月二四日開かれた定例市議会において、阿部福岡市長は、板付基地周辺にある市道路線の認定・変更・廃止に関する三議案(以下「本件議案」という)を提案した。これに対して、市議会議員の中には右本件議案は板付基地の拡張を意図するものであり、従来の慣行では移転協への事前連絡及びその承認が必要のはずだとして反対する者がでて、右同日の代表者質問は混乱のまま休憩に入った。翌二五日は日曜日のため、その翌日の二六日は、まず午後一時一八分から同五五分までと午後六時四〇分から同七時二分までの二回にわたり議会運営委員会が開かれ、市議会各派の意見を集約しようとしたが、日程どおり二月二八日に表決すべきだと主張する自民・明政・清風三派と三月二日の本会議で委員会に付託し八日の本会議で表決せよと主張する社会党議員団の意見が衝突し、夜になってもまとまらなかった。また同日午後二時すぎから市議会本会議が開催されたが、すぐに休憩に入り(なお市議会本会議は当日、このほかに午後五時ごろと午後七時五〇分ごろの二回にわたって延長決定がなされ、同日の午後一二時まで会期が延長されていた。)、そのあとすぐに移転協の緊急常任委員会が開かれ午後六時半ごろまで話し合われたが、ここでも本件議案の取り扱いについて種々意見が対立し、結局、移転協としては市議会に一任するという意見が大勢を占めるに至った。また一方、地区労や民間団体、社会党、共産党などの団体で構成する右安保共闘(議長今吉某、事務局長横尾萬之助)の労組員は同日午前中から議場前廊下に座り込み、夕方には安保共闘の単産代表者会議も開かれた。そこでは板付基地拡張反対の立場から本件議案が可決成立しないよう市議会議場のある本庁舎まで抗議行動をとることが決められていた。

(二)  こうして同日午後六時三〇分ごろ、安保共闘の横尾事務局長は本件議案が本日市議会で強行採決される虞れがでてきたとして関係者に動員要請をかけたが、市従連(市従連は地区労に参加し、地区労は安保共闘に参加していた関係により)の書記局室、これは市役所本庁舎地階にあり共闘会議の本部にもなっていたのであるが、そこに待機していた水早共闘会議議長に対しても至急市従連の組合員を連れて集合するようにと連絡をしてきた。そこで水早議長は市従連の各単組に連絡して、市従連の執行委員ばかり一〇名位が午後七時半ごろまでに集合してきた。また同日の午後五時ごろまで阿部市長との面会を求めて市長室前廊下に座り込みを行なっていた原告坂井も、右座り込み解散後にこれに参加していた数人の市高教組組合員とともに右水早の動員要請に応じて集まってきた。その後水早議長らを含めて安保共闘の動員要請に応じて集まってきた安保共闘に属する労組員らは、本庁舎三階にある委員会室に待機し、議会運営委員会や安保共闘と阿部市長との折衝の成り行きを見守っていた。

ところが同日午後一一時ごろに開かれた議会運営委員会では、本日は引き続き本会議を開くと決められたのに対して、同じころ安保共闘の今吉議長は阿部市長、石村市議会議長らとの折衝を終って右動員者らに、「石村市議会議長との交渉の結果、本日は本件議案の審議はしないという約束をとりつけたので動員の方々もこの辺で解散します。ご苦労さん。」と説明したために、それぞれが帰り始めていたところ、突然本会議開会を告げるベルが鳴り出したので、右動員者らはあわてて急拠本庁舎二階にある議場入口二ケ所付近の廊下に集合した。原告坂井や同木原も右入口二ケ所(南入口、北入口)のうち北入口付近につめかけていた。かくして右動員者らは、議場に入ろうとした議員の入場を阻止しようとして自然と約一〇〇名位で二ケ所の議場入口付近にスクラムを組むなどして、騒然とした雰囲気の中で議員らの入場を実力で妨げたが、この動員者の中に原告両名も加わっていた。そして午後一一時二〇分ごろ、阿部市長や石村議長の連名からなる退去命令を西津人事課長らがマイクで右動員者らに伝達すると共に付近の壁にその旨の文書を掲示したが、原告らを含む右動員者らはスクラムを組んだり(<証拠略>の写真参照)、あるいは議場出入口前の廊下に座り込むなどしたままで、結局議員は議場に入場できず、市議会も開かれそうになかった。そのため石村市議会議長や市当局はそのころ、福岡署に警官隊の出動を要請し、同署は全署員に非常招集をかけることになった。

なおその間、今吉安保共闘議長と石村市議会議長との間で午後一一時二〇分から同四〇分ごろまで会談がもたれ、一応会期延長の本会議を開くことで話がつき右動員者らの実力による阻止行動も中止されて同人らは議会傍聴席に入場したが、議員定数の不足のため結局二六日の本会議は開かれないまま流会となった。

(三)  しかし引き続き翌二七日は深夜の午前零時過ぎごろから議会運営委員会が開かれ、社会党委員欠席のまま今後の方針が検討された。そしてそこでは共産党の藤岡委員の反対はあったものの、午前一時から本会議を開き本件議案を即決することで一応の結論をみた。そこで石村市議会議長は議長職権で市議会本会議の招集を決定し(本来市議会は午後一時から同五時まで開かれるのを原則としていたが、勿論これのみに限られるというものではなかった。)、直ちに各議員に対して招集通知の手続きをとったが、既に帰宅中の議員に対しては電報を打って招集通知を発し(概ね午前零時半ごろ)、それがある議員には午前四時ごろ届いたというところもあった。

一方、議会側のこうした動きを察知した安保共闘は、午前二時ごろ再び動員をかけるとともに、市議会の正・副議長に事態収拾の交渉申入れをしたがこれは決裂した。

そして午前三時ごろには議会開会を告げるベルが鳴り、すぐに議場出入口付近の廊下には約二〇〇名前後の動員者が詰めかけて再びスクラムを組んだりして二ケ所にある出入口をふさいだ。この中には原告木原も加わっていた(なお原告坂井はこの時までには水早共闘会議議長と共に現場を離れていた)。市当局は再び前日同様に退去命令を発したが効果なく、議場に入場を試みる議員のうち二、三名はどうにか入場できたものの、残る多数の議員は動員者らの座り込みなどに妨げられて入場できなかった。そこで市当局は遂に警官隊の出動も止むなしと判断して、その出動を正式に要請した。午前三時二五分ごろ、福岡署と県機動隊の警官隊による動員者の排除が開始され、またたくまに右動員者らは市役所外まで排除された。かくて午前三時三四分から社会党、共産党の議員欠席のまま本会議が始まり、通常行なわれる委員会付託を先の方針どおり省略することにして本件議案が可決され、同四〇分に閉会となった。なお、右警官隊による排除作業の際、動員者の中に二、三名の負傷者がでた。

以上の事実を認めることができ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

三  次に原告らの再抗弁(法律上の主張)について順次検討する。

1  本件争議行為の評価(原告坂井)

(一)  地公法三七条一項と憲法二八条

同原告は再抗弁として地公法三七条一項の違憲性を主張し、被告はこれを争うのでまずこの点から判断する。

地公法三七条一項は「職員は地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおってはならない。」と規定し、一見非現業地方公務員の争議行為を一切禁止するかのような表現を用いている。

ところで他方、憲法二八条は「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」と規定しいわゆる労働基本権を憲法上勤労者に対して保障している。おもうにその趣旨とするところは、憲法二五条が国民に保障したいわゆる生存権を基本理念として、その実質化のため一方で憲法二七条により勤労の権利及び法定の勤労条件を国民に保障するとともに、他方で右憲法二八条により使用者と比べて経済上劣位に立たされた勤労者に対してとくに実質的な自由と平等を確保するための手段として争議権を含めた右労働基本権を保障しようというにあると解される。そして以上の趣旨からして、ここにいう「勤労者」とは自らの労働力を売って対価を得る者をさすというべく、その中には民間労働者のみならず国や地方公共団体その他の公共企業体等に勤務する公務労働者も含まれることについては多言を要しないところである。すなわち、憲法は勤労者たる公務労働者に対しても前記のような労働基本権を保障しているものといわなければならない。

そこで非現業地方公務員の争議行為を一切否定するかのように読める前記地公法三七条一項は憲法二八条に違反しないかということが問題になる。

この点について、(1)公務員の地位の特殊性ないし職務の公共性、あるいは(2)財政民主主義ないし勤務条件法定主義を根拠に、非現業地方公務員の労働基本権の憲法上の保障に重大な制約を認め、右地公法三七条一項の合憲性を肯定する見解がある。

しかし(1)については、確かに憲法一五条一、二項の趣旨からすると、非現業地方公務員は地方公共団体の住民全体の奉仕者として実質的にはこれに対して労務提供義務を負うという特殊な地位を有し、かつ、その労務の内容は公務の遂行すなわち直接公共の利益のための活動の一環をなすという公共性質を有するものであるということができるが、この地位の特殊性ないし職務の公共性なるものも非現業地方公務員のすべてにわたって同一内容あるいは同一程度といえるものではなく、その職務内容、地位等の多様さに応じてさまざまの程度の差を想定しうるものである。また、これを民間企業ないし民間労働者と比較しても、必ずしも職種ないし職務内容によっては職務の公共性の度合いについて公務員の方が民間労働者よりも常に上回っているとは一概にいえないのであって、従って非現業地方公務員の職務内容の多様性を考慮してその労働基本権の制約の可否、程度を論ずるのならばともかくも、これを何ら顧みることなく一律に公務員の地位の特殊性及び職務の公共性というだけで憲法上保障された非現業地方公務員の労働基本権(とくに争議権)を全面的に制約してしまうことは、まさに公務員を公務員なるがゆえに右労働基本権を否定しさることに帰着し、到底納得しうる論拠とはなしがたいものといわなければならない。

また(2)については、非現業地方公務員が、財政民主主義(憲法八三条)にあらわれている議会制民主主義の原則により、その勤務条件の決定に関し地方議会の直接、間接の判断に待たざるを得ない特殊な地位におかれていること(例えば地方自治法二〇四条、同条の二、地公法二四条六項、二五条一項など参照)から、これら公務員には労使による勤務条件の共同決定を内容とするような団体交渉権ひいては争議権は憲法上当然には主張することのできない立場にあることを導き出しているわけであるが、これに対しては次のように考えるものである。

すなわち、まず先述のとおり憲法二八条は公務員をも保障の対象としているのである。従ってその労働基本権に対する制約原理が憲法上に存在するとしてもあたう限り両者の調和を試みる態度こそが要請されているものというべきである。そこで民間企業における団体交渉やその結果としての協約締結の方式を公務員の性格に矛盾しない限り合理的な修正を行なったうえで公務員関係の実定法にとり入れることができる限り、そのようにすることが右要請に沿う所以であると思われる。以上の基本的立場を踏まえて以下検討するに、そもそも団体交渉とは労使が一定の交渉事項について意思の合致を見出すために双方が意見を表明して交渉をするという事実行為をさすのであって、協約締結そのものとは一応区別されるものである。そしてそれに権利性が認められるのは、労働者側の正当な交渉申入れに対して使用者側は交渉の場に出席して誠実に交渉に応じなければならないということを意味するからであって、それ以上に労働者側の要求内容をそのまま受け容れる義務が生ずるとか、必らず協約を締結しなければならない義務が生ずるとかいうことまでをも意味するわけではないのである。この意味では使用者の対応もまた事実行為ということができる。そして以上のことを非現業地方公務員の労使関係の現実にあてはめてみると、使用者として最終決定権をもつのは地方議会であり、労働者たる公務員は直接これに対して団体交渉を求めることはできず、この意味で財政民主主義ないし議会制民主主義あるいは勤務条件法定主義の要請は労働者の団体交渉権を制約する合理的な根拠となしうるものといえようが、更にこの場合、地方公共団体の首長についてみると、同人は公務員の勤務条件について独自に決定する権限は有しなくとも、その勤務条件の設定について議会に原案を提出する権限は有しているものであるから、かかる原案の作成に向かって労働者たる公務員がこの者に対して先の意味での団体交渉権を行使しても右の財政民主主義ないし議会制民主主義あるいは勤務条件法定主義の要請には何ら牴触するおそれはないのである。

もとよりこの場合に労使の意思の合致が成立しても、法的には議会を拘束しないから交渉といっても単なる話合いにすぎないともいいうるが、事実として交渉が行なわれ、その結果として労使の意思の合致があった場合、それが議会の意思に事実として、あるいは首長と議会の折衝等の結果として影響をもち、結局公務員の経済的地位の向上に資することが考えられる。また仮に意思の合致がなくとも、単に首長が公務員の要求を直接に聞いて知るだけでも、その後における議会との折衝過程で右要求が議案に反映される可能性のあることにかんがみると、やはり公務員の経済的地位の向上に資する可能性は十分にあるといえる。そこでこのような交渉もまた、不十分ながら憲法二八条の保障する団体交渉の一態様と解することができる(地公法五五条もこの趣旨を示す規定であると考えられる)。このようにみてくると、先の見解が団体交渉権をして、労使による勤務条件の共同決定を内容とするものと説くところは狭きに失するものといわなければならない。

以上の如く、非現業地方公務員に対しても不十分ながら団体交渉権が憲法上保障されていると解される限り、この団体交渉過程の一環として予定されている争議権、すなわち団体交渉における交渉力の対等を実現することを狙いとして実施される争議行為をもって、憲法上全面的に公務員に対して保障されていないものとは到底解し得ないのである。

このようにみてくると、前記(2)についても必ずしも十分には納得しがたい論拠といわなければならない。

さて憲法上における公務員の労働基本権に対する制約ないし否定の論拠について以上検討してきたわけであるが、ここで指摘しておかなければならないことは、前記(1)、(2)の論拠をつきつめてゆくと、結局公務員に対しては憲法上労働基本権は保障されていない、換言すると憲法二八条にいう「勤労者」の中には公務員は含まれないという解釈に帰着せざるをえないと思われる点である。前記(1)、(2)の論拠を採る見解も未だこの解釈までは受け容れないわけであるから、そうである以上、既述のとおり、憲法二八条が公務員にも保障されている趣旨を活かすような立場から、すなわち他の労働基本権を制約する憲法上の原理(前記(1)、(2)の論拠もこれに含まれる)との具体的な比較衡量をして両者のほどよい調整を図る立場から、この問題を考えてゆくことが憲法の趣旨に沿う所以であると思うのである。

右の見地に立って、しかも現行法規はなるべく憲法の趣旨に合致するよう解釈されるべきであるという立場に鑑みて憲法二八条と地公法三七条一項の関係を検討すれば、当裁判所としては先に最高裁がいわゆる全逓中郵事件判決(昭和四一年一〇月二六日大法廷判決、刑集二〇巻八号九〇一頁)で示した労働基本権制限の合憲性判断に関する四つの条件、すなわち<1>労働基本権が勤労者の生存権に直結しそれを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は合理性の認められる必要最小限度のものにとどめられなければならないこと、<2>その制限は、勤労者の提供する職務または業務の性質が公共性の強いもので、その停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるために必要やむを得ない場合について考慮されるべきであること、<3>制限違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように十分配慮せらるべきで、とくに刑事制裁を科することは必要やむを得ない場合に限られるべく、同盟罷業・怠業のような単純な不作為を刑罰の対象とするについては特別に慎重でなければならないこと、<4>やむを得ず労働基本権を制限する場合には、これに見合う代償措置が講ぜられなければならないこと、以上の四条件をもって右問題に対処するのが妥当であると考える。

すなわち、地公法三七条一項は文言上は先に述べたとおり、非現業地方公務員の争議行為を一律に禁止しており、しかもこれに対する違反は同条二項や同法二九条などによって不利益処分を課しうることとされているが、右の立場からしてこの禁止された争議行為の範囲や不利益処分の程度が、右全逓中郵事件判決の示した四条件の趣旨に照らして必要な限度をこえない合理的なものである限り、これを違憲無効とすることはできないものと解するのが相当である。

かくて地公法三七条一項の禁止する争議行為とは、あらゆる争議行為を指すのではなく、地方公共団体の業務もしくは職員の職務の公共性の強弱と争議行為の種類、態様、規模とを比較衡量し、その公共性の度合い、争議行為の態様等に照らして住民生活全体の利益を害し、住民生活への重大な障害をもたらす虞れのある行為に限りこれを禁止したものと解するのが相当である。

このように地公法三七条一項を限定的に解釈する限り、右規定は憲法二八条に違反するとはいえないのであって、右規定を文言どおりに解釈してこれを違憲無効であるとする原告らの前記主張は採用できない。なおまた、地公法三七条一項は無条件に合憲であるとの被告の主張も既にみたとおり採用できない。

ところで、前記四条件のうち<4>の代償措置については、非現業地方公務員のばあい、地公法によって人事委員会又は公平委員会の制度(同法七条ないし一二条)が設けられており、給与・勤務時間その他の勤務条件は条例で定められることになっており(同法二四条ないし二六条)、しかも勤務条件に関し人事委員会又は公平委員会に対して措置要求を行ないうることになっている(同法四六条)など立法上は一応整っているものと認めることができる。この点原告坂井は右代償措置が十分に機能していないと主張するが、このことからすぐに前記<4>の条件を欠くものとまでは言い難く、同原告の主張には左袒し難い。

(二)  本件争議行為は地公法三七条一項の禁止する争議行為に該当するか。

前記二の1に認定したところによると、原告坂井は共闘会議の副議長として、昭和三六年度の賃上げ要求や臨時職員の定数化要求などを理由に昭和三七年二月一日から同年三月五日までの間共闘会議が企画、実施した職場大会、職場交渉、座り込みなどの争議行為の戦術決定に加担すると共に、自らも二月一四日の職場大会や同月二六日の座り込みに参加して組合員らを指導したというものである。

ところで職場大会については、そこ(二の1)に認定のとおり、右期間中九回にわたって概ね毎回始業時の午前九時ごろから午前一〇時ないし午前一一時半ごろまで本庁舎正面玄関前に多数の職員を集めて行なわれたもので、しかも大会開始前には市庁舎各出入口に毎回職場大会出席を説得するためのピケッティングが実施された関係で、大会に出席しなかった職員もそのまま勤務に就くことなく近くの商店街などに屯して職場大会の開催されていた間は窓口業務の保安要員を除いてほとんどの職員が勤務を放棄していたというものであったが、しかしこの職場大会の開催によって対外的な市民に接する窓口業務については明らかな影響を推認し難く、ただその他の対内的業務とくに市庁舎内で本来行なわれるべき事務についてある程度の遅延があったであろうと推認しうるだけである。この点被告は窓口業務における保安要員の不備を指摘するのであるが、前認定(二の1の(七))のとおり概ね窓口業務には共闘会議によって保安要員が配置されていたのであって、とくに被告の主張するような窓口業務における具体的な市民生活への影響を推認させるに足る証拠は認められない。また市庁舎内におけるその他の事務の遅延についても、それが市民生活に具体的な悪影響を及ぼすものであったことあるいはその虞れがあったことまでをも推認させるに足る証拠は何らうかがえないのである。むしろ労働者が労務の提供を拒否する実態をもつ争議行為の本来的性格にかんがみれば、ある程度の事務能率の遅延(もっともそれが市民生活全体の利益を害し、市民生活への重大な障害をもたらす虞れのないものに限られることは既に述べたとおりである)はやむをえないこととして許容されるべきである。しかも職場大会直前に実施されたピケッティングが登庁し定時に就労しようとする職員の出勤を実力で阻止したというまでの証拠もうかがえないのである。

以上のとおり、本件職場大会はその開催に至る経緯、とくに市当局と共闘会議との交渉の経緯及びその行なわれた態様、規模、影響などを全体的に評価すれば、市民生活に具体的な著るしい影響をもたらしたものあるいはその虞れがあったものとまでは認められず、未だ先に示した地公法三七条一項に禁止された争議行為には当らず正当な労働組合の行為とみるのが相当である。そして二月一四日に開催された職場大会についても右の理はそのまま当てはまる。

次に座り込みについては前認定(二の1の(六)及び二の1の最終節)のとおり、二月二六日においては参加組合員約六〇名がいずれも休暇ないしその法律上の効果はともかく各高校の総務部長の承認をとっていたうえに、その態様については市長室前廊下の両側に一列に座り込んでいたもので他人の通行にはほぼ支障のない程度のものであったほか、教諭であった市高教組の組合員約一四、五名についてはその参加行為が生徒や学校業務などに具体的な支障をもたらしたものあるいはその虞れを生ぜしめたものとまでは認め難い。しかも本件行動のとられた一因として、当時における阿部市長と共闘会議との交渉に円滑さを欠く点のあったことが指摘されるのであって、同市長に直接交渉を求めること自体適切な方法であったとは言えないにしても、必ずしも原告らにのみ不当な要求であったとはいい難いものがある。そして他に本件座り込みによって市民や市役所内の業務に著るしい支障を生ぜしめたものあるいはその虞れがあったものと認むるに足る証拠はないのである。このようにみてくると、座り込みに参加した組合員の職場放棄がかなりの時間にわたっていたとしても、また市長の庁舎管理権を一応は侵害するものだったとしても、本件座り込みは前記基準に照らして地公法三七条一項に禁止された争議行為には当らず正当な労働組合の行為とみるのが相当である。

よって原告坂井の関与した右職場大会、座り込みについては、同原告は労働組合に関する正当な行為を行ったと認めるのが相当である。

ところで職場交渉については、前認定の態様からして、その影響するところも交渉の直接の相手方とされた各所属長の執務阻害のみに限られず、各所属長室に隣接する部屋で平常の勤務についていた一般職員の担当する職務についても多大の影響を受けたであろうことは容易に推認しうるところである。しかも共闘会議のやむを得ずとった方針に基づくものとはいえ、所属長の権限外のことについていわば大衆交渉を迫るなどその行過ぎた交渉態度は例年にないもので、福岡市における労使慣行とまでもいえないこと前認定のとおりであるところからすれば、到底前記基準に照らして地公法三七条一項に許容された争議行為などということはできない。

以上によれば、職場大会及び市長室前廊下の座り込みに関する原告坂井の参加行為ないし企画、指導については、いずれも地公法上禁止された争議行為には当らないと言うべきであるが、職場交渉に関する戦術決定については、その企画、遂行を図った点に地公法上禁止された争議行為に該当するものがあるというべきである。

2  議場封鎖行為の評価(原告両名)

議場封鎖行為については前認定(二の2)のとおり、昭和三七年二月二六日深夜から二七日未明にかけて、原告坂井は一回、同木原は二回にわたりいずれも安保共闘の指示のもとに市議会議場の出入口二ケ所を他の動員者らと共にスクラムを組むなどして封鎖し、議員の入場を実力で阻止したというものである。

このように地方公共団体の事務運営にとってもっともその基本となる方針を決定する場である市議会の開催を、いかなる理由があるにせよ私人が実力で阻止することは議会制度の理念にかんがみて到底許されることではない。この点原告らは、市議会で審議されようとしている本件議案は板付基地拡張を意図するもので、戦争の放棄を定めた憲法九条や前文の趣旨に反するものであり且つ二七日未明に開催された市議会はその招集手続において違法であるから、いずれにしてもこのような不当な市議会の開催を阻止することも許される旨主張するのであるが、しかしこれらのことが仮に認められるとしても、そのことから直ちに市議会の開催を私人が実力で阻止しうることの正当な理由となしうるものでないことは多言を要しないところである。しかも前認定(二の2の(三))によれば、二七日未明における市議会の開催は議会運営委員会で決められた方針に従い、議長が職権で招集を決定し招集手続をとった事実が明らかであるから、たとえ一部議員への招集通知が遅延したとしてもそれだけで招集手続全体ないしは市議会の開催そのものが違法となるものとは解されず、また議会の開催直前における警官隊の実力行使により一部議員や傍聴人が議場に入場できなかったとしても、その直接の原因は原告らの実力行動の方にこそあるのであって、これらを理由に市議会の開催を違法とすることはできない。確かに前記二の2の(一)に認定のように、福岡市長による本件議案の市議会への提案の時機からみて、阿部市長や多数の市議会議員に本件議案をとにかく早急に成立させたいとの気持が強く、それが結局先にみた強行採決につながったものであるという事情、したがってまた本件阻止行動は原告らを含むその参加者の事前共謀にもとづくものではなく、突発的に生じたものであるという事情などがうかがえるのであるが、しかし前述のとおり、それだからといって私人による市議会の実力阻止が正当化されるものと考えることはできない。理由によっては議会(国会や地方議会など)の開催を議会外の暴力によって阻止できるものとしたのでは、議会制民主主義の基盤はそれこそ根底から揺らぐことになるからである。

そして他に市議会の開催が違法なることあるいは原告らの阻止行動の正当性を推認せしめるに足る証拠は見当らない。

以上によれば、右原告らの本件阻止行動は私人としての勤務時間外の行為にすぎないけれども、かかる労働者の職場外の行為といえども一般的には、職場秩序と直接関連性を有するものは勿論のこと、そこまでの関連性がなくとも職場の社会的評価の低下毀損のおそれがあると認められる行為については、職場秩序を維持確保するために懲戒処分の対象とされることも当然ありうるものというべきところ、ことに本件の場合、原告らは一般私企業よりも高い公共性を有する市職員、それも教育業務に携わる市立高校の教諭として市議会の審議を尊重すべきことを強く要請される立場にありながら敢えて阻止行動に及んだ点において、その教育公務員としての市民に対する信用を失墜させたものと評せざるを得ないのである。かようにみてくると、前記原告らの行為は地公法三三条にいう信用失墜行為に当たるものというべきである。

3  本件処分の適否について

右1にみたとおり、本件争議行為のうち職場大会と座り込みはいずれも地公法三七条一項の禁止する争議行為には当たらないというべきだから、これら職場大会や座り込み行動の企画、指導にあたり自らも二月一四日の職場大会、二月二六日の座り込みに参加した原告坂井については、被告主張の懲戒事由は存在しないというべきであるが、職場交渉の企画、遂行を図った点については同原告に被告主張の懲戒事由が存するものというべきである。

次に原告両名の行なった議場封鎖行為は、右2にみたとおり同原告らに被告主張の懲戒事由が存する(地公法二九条一項一、三号該当)というべきである。

ところで非現業地方公務員に対する懲戒処分の種類としては、地公法二九条によれば戒告・減給・停職・免職の四つが定められている。この点懲戒権者は、処分の選択を決するにあたっては、懲戒事由該当行為の態様のほかその原因・動機・状況・結果はもちろん、更に被処分者の態度、懲戒処分等の処分歴、社会的環境、選択する処分が他の職員や社会に与える影響など諸般の事情をも斟酌することができるものというべく、以上の事情を総合考慮して職場秩序の維持確保という観点からみて相当と考える処分を選択すべきである。もとよりその裁量は恣意にわたることをえず、当該行為との対比において甚だしく均衡を失するなど社会通念上合理性を欠くものであってはならないが、懲戒権者の処分選択が右のような限度をこえるものとして違法性を有しないかぎり、それは懲戒権者の裁量の範囲内にあるものとしてその効力を否定することはできないものといわなくてはならない。以上のような懲戒権者の裁量権を前提として、選択された処分が右裁量の範囲を逸脱するものかどうかを検討し、そこに合理性を欠くとまでは認められない以上当該処分の効力は否定しえないものと判断するのが妥当であると考える(昭和四九年二月二八日最高裁第一小法廷判決。民集第二八巻第一号六六頁参照)。

以上を前提にして本件をみるに、原告坂井は職場交渉の企画、遂行を図ったこと及び議場封鎖行為に一回参加したこと、また原告木原については議場封鎖行為に二回参加したことにより、いずれも減給二カ月の懲戒処分に付されたものと認められるのであるが、議場封鎖行為については、原告両名の高校教諭としての立場、スクラムや座り込みなどの手段によってなされたその議場封鎖行為の態様・回数、及び賃上げ要求・臨時職員の定数化要求などを目的とした本件争議行為とは自ら異なる動機・目的に基づく行動であったことなど前記二の2に認定した諸事情、また原告坂井については更に職場交渉の企画、遂行を図った事由をも併わせ斟酌すると、被告の原告両名に対する本件処分を選択するについての裁量には、議場封鎖行為について強行採決という異常な事態に対する抵抗としての性格をもつ行動であったことを考慮にいれても、到底その範囲を逸脱したものとまでは認め難いものがある。なお弁論の全趣旨によると、同じく議場封鎖行為に参加した市役所勤務の職員(牧泰司、原田松美、池見友幸)に対しては減給一ケ月の懲戒処分が課されているのであるが、同人らと原告両名とは懲戒権者や職種・職務内容が明確に異なっているものであるから、両者間の処分内容に右程度の差異のあることをもって一概に不均衡な処分ひいては本件処分の裁量逸脱を推認することはできない。

さらに原告らについては、以上に検討してきたところからして、被告による処分権濫用の事実も認められないので、同原告らの再抗弁はいずれも理由がない。

ちなみに、原告坂井について当裁判所が労働組合に関する正当な行為に属すると判断した職場大会、座り込み関与がその処分事由に含まれているのであるが、爾余の事由も前記認定の事実関係にてらして、特に軽微とはいえず、被告も同原告が右職場大会、座り込みに関与したことを主たる動機として本件処分を行ったと認めることもできないから、本件処分が地方公務員法五六条に反する不利益取扱いと認めることはできない。

四  結論

上叙のとおり、原告両名の本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡野重信 裁判官 中根與志博 裁判官 榎下義康)

別紙 処分一覧表

<省略>

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